VOL.11 真言宗豊山派と裁判員制度

真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一

  かねてから話題にのぼっていた裁判員制度がいよいよはじまった。わが宗派でも、去る3月30日に総合研究院主催の勉強会を開催し東京地裁の専門家を招いて内容についての説明をして貰った。新しい制度であるから、もし真言僧侶が選任された時に、どのような対処するのか、さまざまな考え方があろうが、基本的な見方を述べてみたい。もちろん、裁判員という、いわば世間の役目を、僧侶としてどう見るかの問題であるから、宗義とか教義などで一つの考えにまとめる必要は無い。しかし、これを機会に、宗祖弘法大師が、国法と仏法との関係をどのようにとらえておられるかを学習し、私たちの態度をきめるよすがにすることが大切だと思う。



  裁判員制度の趣旨は、国民の中から選ばれる裁判員が、刑事裁判に参加する制度で、6名の裁判員と3名の裁判官が共に刑事裁判に立ち会って、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合どのような刑にするかを判断する、という。国民が参加することによって、ひとりひとりの感覚や経験に根ざした、新鮮で多様な視点が、裁判にもたらされることを目指している、と説明されている。そして自衛官や警察官は裁判員になれないとか、70歳以上の人や学生、病気やケガの人々は、選任されても辞退することができるなどの例外はあるものの、20歳以上の全国民が参加することになっている。したがって、僧侶であるからといって例外になるわけではない。僧侶である私たちも、恐らく大多数の国民と同じように、国民が司法に参加するという民主主義の制度を一応理解してはいても、自分が裁判員に選ばれたらどうしよう、と不安に思っている方々が多いのではなかろうか。あるいは、さらに深く考えて、僧侶たるもの、他人を裁くことができるのか、と受けとめる人々もあるかもしれない。こうした各人の不安や思いは、間違っているわけではないと考える。制度自体に反対する人々も多いであろう。しかし、それはそれとして、善良な国民のすべてが司法に参加する、というならば、不安や疑問や反論をいだきながら、積極的に参加して、国民としての責めを果たすことも大切ではなかろうか。



  国の法律と仏教の戒律とは別のものである。僧侶である私たちは、他方で国民として国の法律を守る義務もある。この二つをどのように考えたらよいのであろう。この問題は、すでに1200年も前から考えられている。



  大師57歳の御著『秘蔵法鑰』の中巻に、のちに「十四問答」といわれる往復問答が加えられているが、その第十三問答で、問者の青年政治家が、仏法と王法(国家の法)と相い和すること如何ん(両者の関係はどういうことになると思いますか)というのに対して仏教界の長老である玄関法師(大師ご自身をモデルとする)は明快に答えている。



  「此れに二種あり、一には悲門、二には智門なり。大悲の門には開いて遮せず、大智の門には制して開くことなし。(中略)又人王の法律と法帝(仏陀)の禁戒と、事は異なれども義は融せり。法に任せて控馭(世を治める)すれば利益甚だ多く、法を枉げて心に随うれば(勝手にすれば)罪報きわめて重し。世人はこの義を知らず。王法を細しくせず、仏法を訪らわずして、愛憎に随って浮沈し、(中略)これをもって世を馭むれば後の報いをば何ぞ免れん。慎しまざるべからず、慎しまざるべからず(後略)」と。



  これを要するに、仏教の菩薩道は、大智と大悲の面、すなわち菩提を求める自利の面と一切衆生を救済しようとする利他の面とによって成立している。そして大智の面においては仏教独自の戒律を持ち、ある意味で王法と仏法とは「制して開くことなき」ものを持っているであろう。しかし大悲の面においては常に国家のために努力し、一切衆生の教化に当るのであるから、この面では、王法と仏法とは「開いて遮せず」、全く一致するものと言うことができるのである。



  また、国の法律を適用する際に、愛憎にしたがって法を枉げれば、その罪報は重い。同様に、一部の人々の不行跡を見て仏教全体を処断してしまえば、国家が正法を捨てることになり、その罪報は免れることができないのである。大師は世の指導者たちに慎重な態度を要望して、「慎しまざるべからず」と述べているのである。



  いま問題になっている裁判員制度も、弘法大師によれば、僧侶方の利他行と考えるべきであり、この制度に奉仕することは、仏弟子として「開いて遮せず」の関係であって、その行為をさまたげるものは無い筈である。難しい問題もこれから沢山出てくると思うが、協力して正すべきものは正して、よりよい制度にしていきたい、と思う。



  念のため付け加えるが、死刑廃止問題は、裁判員制度とは切り離して研究し主張するべきものであり、さらに死刑廃止を宗是として標榜している宗派や宗教もあるが、わが宗派はこうした総括的な態度はとらず、僧侶の自由な思索にゆだねている。その方がより深い議論ができるように思うがどうであろうか。



平成21年7月10日



※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。