真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一
【憲法の条項と現状】
戦後五十年を経て、現行の憲法と現実の状態とがあまりにもそぐわない点があるならば国会でこれを調査することは当然である。その中心的なテーマはなんといっても第九条で、戦争は一切しないといい、第二項で、そのための軍隊は持たない、と明言している点であろう。戦争直後の国民の感情としては、これが率直な気持ちであったに違いないが、国連に復帰し、いわゆる普通の国になってみると、自衛のための軍備は不可欠で、全くの無防備、丸腰ではとうてい国を維持できず、国が豊かになれば日米安保条約におんぶにだっこでは、米国も納得しなくなってきた。自衛隊が国連の決議にしたがって平和維持のために海外で役目を果たすことも許されなくてはならない情況もおこってきている。わが国の自衛のためにも世界平和維持のためにも、憲法を調査する必要は焦眉の急である。
では憲法を考える際に私たち仏教徒は、どのような見識を持つべきであろうか。
【仏教が教える自由と平和】
いまから約2500年前にインドに出世された仏陀釈尊は、当時のインドの世情から見て、神話の神が人間の対立の原点になっていることをいち早く察知され、無我論を強調されたことは、仏教にとってかがやかしい金字塔なのである。論ずるまでもなく、仏教は、小乗・大乗・密教とさまざまに展開しているけれども、要は、神話の神を棄てて、限りなく高い人格(仏陀)を仰いで力づよく生きていくことが特色なのである。だから仏教では教理の上からして、すでに他の神々を否定することも肯定することも必要なことではない。つまり釈尊の叡智のおかげで、仏教徒は、神話の神から解放され、本当の意味で心の自由と平和を主張できるのである。
ところがこの頃の日本人は、なにか不思議なことを強く信じ込むことが信仰であり、それが本当の宗教だと考えている人が増加していると思う。恐らく西洋的な宗教の影響もつよいと思うが、奇蹟のようなことを信じ込むくせを持つと、あやしげな教祖が出現して、善男善女を地獄の底につきおとすようなことが多発して、宗教こそ最もこわいおそろしいもので、一般の人はなるべく宗教にはちかづかないほうが賢明だということになる。
私たちは、神話の神から人々を解放し、宗教戦争を回避させてくれた仏教の主張を寸刻も忘れてはならない。
わが国に大乗仏教を導入してくれた聖徳太子は、この釈尊以来の仏教の主張である平和主義を、まことに的確に把握されて、わが国に定着させてくれた。太子の設定された『十七条憲法』の第一条は、人も知る「和をもって 貴 しとし、 忤 うことなきをむねとせよ」であり、まさに仏教の平和精神が根本にくるべきことを示している。これは推古12年(604)太子31才の4月のことである(『日本書紀』)。つまりわが国ではすでに1400年前から、仏教の平和主義が、国の中心のきまりに制定され明文化されているのである。 この歴史的な 重 みを、現代の日本人はともに誇りにすべきである。
【感情論でない平和主義】
現行の憲法の平和主義は、戦争に敗けたからもう二度としたくない、という今次大戦の反省だけからきている、とは考えたくない。敗けたのがいやなら勝ち 戦 さならやってもいいということにならないか。たしかに敗戦の教訓は大切だが、それは時間とともに薄れてくるのである。自己の体験だけで、子供を戦場に送るなといっても限界がある。世界中の母親でだれが好んでわが子を戦場に送るものがいようか。大切なことは、私たち仏教徒は、釈尊以来2500年、聖徳太子からでもすでに1400年、本当の平和、真実の和の精神を持っているということを基調にしつつ、世界平和や憲法問題を考えなければいけないのである。そうすれば、おのずから、ユーゴの内戦も、中東戦争も、実は厳然とした宗教戦争であり、神の名のもとに人々が殺され続けているという大きな矛盾にも気付くであろうし、神話の神が世界平和のさまたげになっている事実も知れようし、釈尊や聖徳太子の先見性にもおどろかされていくのである。
平成13年4月
※本頁の肩書きは、寄稿いただいた当時のものです。