興教大師の生涯と業績

誕生と少年時代
興教大師
   興教大師 こうぎょうだいし 覚鑁上人 かくばんしょうにん は、 嘉保 かほう 2年(1095)6月17日、 肥前国 ひぜんのくに 藤津庄 ふじつのしょう (現在の佐賀県鹿島市)にお生まれになりました。
  父は 総追補使伊佐平次兼元 そうついぶしいさのへいじかねもと 、母は橘氏の娘で、その三男として誕生され、幼名を 弥千歳 みちとせ と名付けられました。
  早くから賢明で、8歳の時に僧侶になる誓願を起こされました。
出家修行
  13歳の夏に上京、仁和寺の 寛助 かんじょ 大僧正のもとに入室され、翌年から奈良に留学し、仏教の勉強を始められました。16歳で一端仁和寺に戻り、寛助大僧正に従って出家得度され、名を 正覚房覚鑁 しょうがくぼうかくばん と改め、また奈良に戻られ勉強を続けられました。
  17歳の時から本格的な真言密教の修行を始められ、20歳の時に修行を成満し、その年の秋に東大寺戒壇院で受戒され、正式な僧侶になりました。
  覚鑁は、同じ年(永久2年・1114)の12月晦日、高野山に登り 青蓮 しょうれん 明寂 みょうじゃく の両師について 坐禅観法 ざぜんかんぼう を修され、 定尊 じょうそん 教尋 きょうじん の両師のもと真言教学の勉強を続けられました。そして、27歳(保安2年・1121)の時に仁和寺に戻られ、師匠の寛助大僧正から 伝法灌頂 でんぽうかんじょう を受けられました。
高野山の復興
  覚鑁の御生涯を貫く眼目は、高野山の復興と真言教学の振興にありました。これは『 求聞持立願文 ぐもんじりゅうがんもん 』や『 伝法院供養願文 でんぽういんくようがんもん 』などから窺われます。覚鑁が入山された当時の高野山は、たび重なる天災によって 伽藍 がらん も荒廃し、その修復もままならず、 真然大徳 しんぜんだいとく (804~891)によって始められた春秋二会の伝法会(学問研鑽の法要)も止絶した状態でした。覚鑁はこの状態を歎き、弘法大師の御遺言とされる『 御遺告 ごゆいごう 』を守って、高野山をその昔に復興しようとされました。
  しかし当時の高野山は、第二代 座主無空律師 ざすむくうりっし 下山以来東寺長者の支配下にありました。そこで覚鑁は、高野山を高野止住の僧の手に収めて、弘法大師の遺志にそうよう努力されたのでした。
  そして、宗団として宗風を刷新し、教学の興隆を図られ、そのためにはそれ相応の教育組織が必要であり、その機関として伝法院を建立し、伝法二会を設けて学山として振興しようとされました。
  幸いに、 平為里 たいらのためさと による私領 石手荘 いわでのしょう の寄進や、白河法皇、鳥羽上皇といった有力な外護者を得て、伝法院と 密厳院 みつごんいん が建立され、伝法会も再興されました。さらに覚鑁は大伝法院座主に就任し、これが金剛峯寺座主職を兼ねるという院宣を賜り、驚くほど短期日のうちに御誓願を達成されます。しかし、それが高野山内の保守派である金剛峯寺方との軋轢を生じさせ、わずか2ヶ月後の長承4年(1135)3月21日には両座主を辞任され、密厳院に 籠居 ろうこ して無言三昧の行に入られました。これは保延5年(1139)4月2日までの4年間、1446日に及ぶ行でした。
根来山 ねごろさん 隠棲 いんせい とご 入寂 にゅうじゃく
根来寺
  覚鑁は高野山を、弘法大師が 三鈷 さんこ なげう って選ばれた聖地であるとして、静寂な霊山、修行の地であると考えられていました。高野を愛し、高野の隆昌と独立を願い、それに努力し続けてきた覚鑁は、高野の復興と教学の振興(=伝法会の再興)を果たされました。
  しかし、その活動が全く意図せざるところの金剛峯寺方との不和・対立を招いてしまい、反発、嫉妬等が覚鑁の一身に集まりました。高野をこうした紛争から守るために、我が身を引くしかないと思われ、多くの弟子たちと共に根来へ移られました。残念ながら、何時根来に移られたのか確定することは出来ませんが、『 打聞集 うちぎきしゅう 』によれば、永治元年(1141)8月25日に、根来 豊福寺 ぶふくじ において伝法会談義が始められたことが記録されており、その頃までには根来に移られていたものと思われます。
  覚鑁は根来に移られた後も、豊福寺における伝法会の勤修等による弟子の教化に勤められ、また 神宮寺 じんぐうじ 円明寺 えんみょうじ の建立、御願寺の院宣授与等、積極的に活動されました。
  しかし、康治2年(1143)7月、風邪で病床につかれた覚鑁は、遂に12月12日円明寺の 西廂 せいしょう にて、坐禅の姿をとり、衣の中で秘印を結び、口に真言を唱えながら、眠るが如く49年の短い御生涯を終えられました。
  元禄3年(1690)12月26日、ときの東山天皇から興教大師の 諡号 しごう を賜わりました。覚鑁がご 遷化 せんげ されてから547年目のことです。
  興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れに対して、興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗といいます。
  この新義真言宗はやがて大和長谷寺を中心とした豊山派と、京都の智積院を中心とした智山派とに分かれるのです。
真言の教えの中興
  興教大師の当時は、真言宗において、事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として あが められています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。
  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。